古森(ふるもり)の図書室

森の奥に居場所を探して...

時の子守唄

時々、ある曲のメロディーが頭の中を巡り巡って離れない時が ある。
今の場合・・・何故か解らぬまま頭に浮かぶメロディーは

その当時、子どもたちが夢中になってハマっていたゲームの中の音楽だった。
ゲームをしない私も、その横で音楽だけは耳に入っていた。
それを元に出た小説は
手にとって読んでみていた。


2つの異なる次元の中に存在する、それぞれの世界を巡って起こる出来事、冒険。勇者の活躍。。

そんなストーリーの中で
主人公たちは  時を超えて次元を超えて、
もう一つの世界の自分(前世?)と現在の自分と向き合う。

時間とは・・・何なのだろう?
と、私も何度も自分の中で考えてしまう。

時間とは・・螺旋であり、また巡り巡ってくる・・・と。



・・・・・・

もう何十年も昔に集まった、懐かしい頃の友人たちは
それぞれの生活に一生懸命に生きていることだろう。
お互いに会いたい、
会って時間を忘れて、
・・・あの頃の様に、夜の耽るまで語り合いたい。

再会できたその時には
まるで・・つい前日に別れたばかりの様に
ごく自然に、話し始めるのが旧友というものだと思う。それも不思議なことではあるが。



・・・・・

《 時の子守唄 》

今。なぜ・・・このメロディーが浮かぶのだろう。。。
小説のストーリーの中では、
前世(?)に悔やまれた出来事の
ちょうどその時の場面と同じところで
主人公たちは、前の自分を思い出し、前の失敗を思い出し、
「今度こそは。」と
もう一度、「その時」から生きる。生き直すかのようだ。



・・・・・

充実した語り合いの 時を 共に過ごした友人たち。
もし、今度 ふたたび会えたら
今の自分たちなら・・・どんな会話に なるのだろう?

・・・・・

時を超えて 語りかけてくれるものが ある。
音楽も そうだし、小説やエッセイや、その他の記事だって
何年も何十年も・・いや、
「歴史」と言えるほどの多大な年月を経てさえ、
残されたものからは
何かを・・・教えてもらえる。何かを・・・気づかせてもらえる。



・・・・・・


今は もう亡き人々からも、何かを伝えられているような・・・
何かを・・教えられるような・・・
そんな感じが・・漠然とだけど、心の中を巡る時も、ある。


梨木果歩さんの小説  《 家守綺譚 》 の中にも
亡くなった友人が現れ、主人公に話しかけてくる。
色々なことを教えてくれる。

主人公がその友人の家の「守り」をするようになるのも
何かしら、「そういう流れに持っていく何かが」働いているように思えてしまう。

実は・・・人に話しても信じてもらえるかどうか自信が無いので

ここに そっと書くのだが・・
私自身も、今度の、この家に住むようになって
何かしら・・
「この家」そのものから、
何かを伝えられて(教えられて?)いるような気がして仕方が無い時があるのだ。

特に 1階の和室に居る時、
そこには 仏間と床の間が並んで しつらえてあるのだが
庭に面した窓側の障子と、
その床の間と仏間の間に居していると

「何かわからないけど・・暖かいものに見守られているような」
感じがする。

何故か・・わからないけど・・暖かい、
安心して ここに居ていいのだという「ぬくもり」の空気を感じる。

・・・これは・・・前の方の(この家を建てた方たちの?)
暖かい「思い」が
ここに残されているのだろうか???

そんな不思議な感覚を覚えるたびに
前に読んでいた、この
《 家守綺譚 》の小説が頭に浮かんでくる。

・・・・・・・

・・・・・・・

この数年の間に、母が亡くなり、後を追うように母の弟である、叔父も亡くなった。
その、私の大好きな二人の写真を入れてある写真立てを
今のこの家の、窓の景色が良く見えて小鳥たちの声も良く聴こえそうな位置に
置いてある。
森の好きな、そしてハイカラな音楽が好きだった母と叔父たちに
楽しんでもらいたいと思い・・・

その二人からも 暖かい思い・・を運んできてもらえてるような気がする。
・・・そう、自分が思いたいだけかも しれないけど。


・・・とりとめもなく、まとまりもなく、ただ思い出すままに書いてみている。

時間 ・・・今を生きる人間の時間。故人たちの時間。
その間を取り持つ、何かも・・・あるのだろうか。



時の子守唄の旋律は・・優しく物哀しい。けど、美しい。




(追記:。。。あとで気づいたら・・・この時に私が思い出していた曲は、
《時の子守唄》と、《哀しみのとき》との2曲を混同していた!
「優しく物哀しい」と感じたのは、《哀しみのとき》の方だった。。。
でも、どちらも好きな曲なことには変わりない。)